山添村観光ボランティアの会第6回総会記念講演

テーマ:山添村の五輪塔について
講師:元興寺文化財研究所研究員、狭川 真一 氏

山添村には、村によって歴史的文化財として指定されたいくつもの五輪塔があります。それがつくられた時代、社会的背景、その目的などについて、最新の研究成果を含めた講演をしていただきました。
その内容は、山添村における観光資源としての価値を示すだけでなく、もっと壮大な歴史の流れを知る上で、目から鱗を落とすような切り口を提供するものであった、と思います。
普通に知られている五輪塔は、大名家や大寺院の管主などのなどの墓標です。昔は、身分、地位の高い人の墓標はこんな形をしていたのか、と漠然と理解していた人も多いと思います。寺院などでは、歴代の管主の五輪塔が並んで建てられている風景がよく見られます。ところが山添の五輪塔は、一つの墓地に一つなど、孤立して建っており、それが村のあちこちに散在するという存在の仕方です。

山添のような五輪塔は、伊賀地方から大和(奈良盆地)まで広く存在するそうです。
この、大和高原、奈良盆地、伊賀地方に分布する五輪塔の構造は、基壇の上に5層構造の塔があり、基壇には大きな壺(骨壷)が埋められている。そして、基壇と塔の一番下の蓮台の間に横穴が作られており、そこから壺に骨を入れるようになっているそうです。
今後この地方の五輪塔を見る場合は、この穴に注意してみてくださいということでした。また、この構造は、後世に場所が移されたり修理されたりして原形が残されていないものもあるそうです。その点は、原形が維持されていた中ノ庄の五輪塔の発掘調査によって、多くの謎が解明されたと言うことです。

塔に骨を落としこむ穴が作られていたことから、この地方の五輪塔は、一族の骨を、しかも何代にもわたって合葬する、今日で言う納骨堂、寄せ墓のようなものだったと断定できたそうです。
作られた時代は鎌倉から室町時代。時代が戦国に向う中で、一族の団結の証として一つのお墓に入る、という意味があったのではないか、ということです。
そしてこの集合墓は長い期間、場合によっては200年ぐらいにわたって使われ続けたようで、それゆえに地域の団結の象徴としての深い意義を持ち、それが今日まで残されてきた理由だと思われます。
長い期間集合墓として利用し、かつ小さな穴から骨を入れるというのは物理的に不自然です。そこは、一族の団結の象徴として、遺骨の一部を、しかも火葬して入れたと思われる、ということでした。
大和高原には、小さな荘園が多数存在し、それぞれが競合と共同関係を維持しながら存在していた。それが、地域ごとの一族の団結の象徴としての集合墓、五輪塔が多数存在する理由ではないか、ということでした。

山添は、今も土葬が行なわれており、両墓制などの風習が全国的に知られているところです。そこで、鎌倉、室町時代に火葬が行なわれていたのだろうかという疑問が生じます。話は日本の葬式の歴史にも及びました。

日本史では、飛鳥時代の前を古墳時代と呼ばれています。古墳は、時の権力者の埋葬の方法として、庶民とははっきりと区別し、それがもっとも顕著な形になった時代のものです。
その時代以前は、古墳からもそうですが、縄文や弥生時代遺跡からも人骨が発掘されます。その時代はあきらかに土葬です。山添の土葬は、そういう時代から連綿と続いてきたと思われがちですが、実際は違うようです。
おそらく大陸文化の流入の影響にもよるのでしょうが、戦国時代までは火葬が主流だったそうです。しかし、火葬は金がかかる。薪代もばかにならない、ということで、火葬は富裕層では行なわれたが、下層階級は土葬、しかも墓標も無いという形になっていったそうです。

そして江戸時代になると土葬が増えていったそうです。山添の土葬と両墓制の起源はどうやらそのあたりのようです。明治時代になってから、新しい時代を作ると言う国家的意思と衛生面の理由から、全国的に火葬を原則とする風習が、政策的に行なわれていった、と言うのが歴史の流れだそうです。しかし明治政府が押し進めた火葬は、都市部では普及は早かったようですが、地方、農村部では昭和後期まで土葬が残ったところも少なくありませんでした。
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